ハムたまについて

表現自体は一人でもできるが、こと発表の場においては、何人かで協力し場所を確保することが多い。必然的に近しいところでの繋がりはできるが、違うコミュニティや世代との繋がりは形成されにくい。さらにこのコロナ禍において、発表の場は減少を余儀なくされ、一人一人のアーティストが個として孤独に戦わなければならなくなってきたように感じる。

そこで私たちは、「ハムたまごサンドイッチ」という企画を立ち上げ、場所を確保し、パフォーマンス・パフォーミングのアーティストが気軽にクロスオーバーできるプラットフォームを作ることにした。パフォーマンスとは物体のない無力なものであり、同時にアートとしての表現の可能性は多様である。そのためパブリックなWeb上での具体的なアーカイブしていくことで、物体を持たないパフォーマンスを確かな形に残すと同時に、多くの人が共有できるようにすることで、業界の繋がりをより強固なものにしたい。

世代や専門を越えた、横断的な人選を行っていくことで表現の可能性を拡大するような試みを行う。継続的にイベントを続けることで、これからの日本のパフォーマンスシーンを発展させ、さらなる多様性の拡大につながることを目的とする。

ハムたま 第0回会議 ハムたまのパフォーマンスへの思いとは? 👇

    

サンドイッチは、様々な具材が一つの料理になって、新しい味を生み出している。

つぎに具材は何がいいかを考えた。まだ生き物になる前の新鮮なたまごと、生き物の体の一部を熟成させたハム。

ハムにつかわれた肉も、もしかしたら、かつては何かのたまごだったかもしれない。

そこに、レタスやチーズやトマトをはさんで、おいしいスープがあればなお良し。

ハムたまの名付け親のミーアキャットです。

このイベントの発足のきっかけは、発足メンバーである、ミーアキャットと村上裕が、2021年3月に御徒町のとある公園のお花見で出会ったことをきっかけに始まります。

いっしょにライブ媒体に何か取り組んでみないかという村上の声掛けにより、私は本格的にコンセプチュアルなパフォーマンスをはじめます。それまでの私は大学の選択授業でパフォーマンスを少しかじった程度で、主には絵画を中心に制作していました。

社会人と学生、先輩と後輩、プロとアマ、芸術家と会社員、外国人と日本人、男と女、大人と子供、

世の中には、様々な区切りや隔たりがあるように思いますが、ときには区切りを外してみるのはいかがでしょうか。

何か共通テーマがあれば、様々な芸術家や芸術家でない人も、協力してひとつの大きなムーブメントを作ることができるはず、、、

このハムたまは、パフォーマンスアートを中心としたプラットフォームですが、私はパフォーマンス以外の情報もたくさん載せていきたいと思っています。(プラットフォームと口で言うのは非常に簡単ですね、色々と曖昧にできますから笑)

イベントごとに、出演者全員の対談をはさんだり、、アーティストのそれぞれのページを作ることは、その取り組みのひとつです。

イベントの出演経験豊富なアーティストから、はじめてライブ媒体をやった学生まで、同じホームページに同じ形式でアーカイブされます。

パフォーマンスという言葉をタイトルにいれなかったのは、ジャンルの境界線をひきたくないと思ったからです。

サンドイッチの断面の具材の重なりが、まるでイベントのタイムテーブルのようにもみえる。

たまごはまだ作品の発表経験の少ない学生かもしれない。ハムは、長年現場で活躍するプロかもしれない。

でも、たまごとハムだけじゃサンドイッチとしては寂しいから、良い舞台、観客、いまこのページを読んでくれているあなたがきっと必要になる。このプラットフォームが、アートマニアから最近芸術やパフォーマンスに興味を持ってくれた初心者まで、世の中の様々な区切りを超えたいろいろな人々の関わり合いによって、見たことのない新しいムーブメントになるといいなと思っています。

ミーアキャット

アーティスト

  • Murakami Hiroshi

    アーティスト
    音楽、映像、プログラミング、絵画、パフォーマンス、インスタレーション、建築、漫画など、様々なメディアを扱いながら作品を制作してきた。固有のメディアから作品を思考するのではなく、表現を優先的に思考し、メディア化する。統合的総合芸術を画策している。

  • Meerkat-girl

    何かを作るなかで、いつも頭の片隅にあることは、「文化と精神の在り方」をどのように抽出するかである。どんな時代、どんな場所、人々は多様な『あそび』を残してくれた。それは生命活動に直接は関係のないものだが、時代や場所に縛られずに“人間を人間たらしめる” ものであり、文化とそこに宿る精神性を反映している。私は日本の俗文化に注目してリサーチしている。作品に中心となるようなストーリーは設定せず、見る者がそのヴィジュアルから俗文化に潜む精神性をかんじて、見る者の個人の記憶の断片と重なり合うようなものを作りたい。